本と音楽と珈琲の日々

読書録、日々の出来事、雑感をつれづれに

BR 『知の技法』 小林康夫/船曳建夫[編] 東京大学出版会 

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(注:イメージ画像)

先日、高校生の息子といっしょにいくつかの大学のオープンキャンパスに行ってきました。私が通ったころの大学と現在の大学はその風景も大きく変わり、時間の流れを痛感せずにはいられませんでした。

大学での授業、講義は今はどんな感じなのでしょう。オープンキャンパスの際に模擬授業があり、息子は参加してきましたが、私は外で待っていました。ちょっと受けてみればよかったかなと今になって思うところも・・・。

ところで、本書『知の技法は今から20年くらい前に東京大学教養学部で文系1年生のテキストとして使用されていたものとのこと。久々に大学生に戻った気分で読んでみました。おお、何十年かぶりに大学で講義を受けているような感覚でなかなか面白い。内容は、大学で知をどのように学ぶのかといったことを基本テーマとして、文系の各分野において具体的な言説が、さも講義のような形式と分量で展開されています。

しかし、もしかすると日本の最高学府と呼ばれる東京大学がこのような教養を行わなければならないという事態にこそ、日本の大学教育の問題点があるのかもしれません。

意識的に「聞き取る」のではなく、自然に「聞こえてくる」,作品の「感じ」-それをつかんだ気になれることが,要するに「読んだ」ということ(P69 翻訳-作品の声を聞く)
同じころ画家のブラックは、「わたしは物を信じない、信じるのは物と物との関係だけである」といっています。(P102 構造-ドラゴン・クエストから言語の本質へ)

要素というものが全体(体系、構造、場、パタン)のなかで、他の要素との関係(対立、対照、差違)を通じて価値(機能、意味)を得ている、という認識の仕方なのです(P111 前同)

いわゆる《構造主義》にはさまざまの傾向を見ることができます。これを諸科学における認識の方法と考えると、そのもっとも基本的な共通項と見なされうるのは、ほぼ次の三点に尽きるように思われます:
(1)全体の重視
(2)全体を構成する、諸部分どうしの関係にたいする注目
(3)ある構造から別の構造への変換」(P112 前同)

セミナーの中で議論を行なうことの全般にわたる難しさは、演習の内容や取り組みの熱心さといった水準よりも深いところで、「うなずきあいの18年」間に鍛え上げた同意の技術が、不同意の意見を作り、言うことを妨げていることにあります(P275 結び-「うなずきあい」の18年と訣れて) 

 本書が刊行されてから20年、現在の大学を巡る状況は、この当時の大学関係者が憂慮した事態を免れえたかは甚だ疑問です。むしろ、東大の或いは大学全体のというよりも日本全体の「知」に対する姿勢そのものの問題であるように思えてならないのですが。

 

知の技法: 東京大学教養学部「基礎演習」テキスト

知の技法: 東京大学教養学部「基礎演習」テキスト

 

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